「いよいよ次ぎは高梨さんとこだね」
帰りの車中、後部座席でへたり込んでいる堀田が言った。頭を窓の方へ傾けたまま、目だけを私に向けている。眼窩の隈が極度の疲労を物語っていた。
「ええ・・・そうですね・・・」
「さっきのビデオに怖気づいて、自分だけ一抜けたはなしだぜ高梨さん」一瞬、堀田の目が鋭く尖った。
「あ、はい、それは・・・」
「今から楽しみだよ。あんたんとこの“完璧な”奥さんが、どんなふうにやられちまうのか。イヒヒヒッ」
「堀田さん・・・」
望んだこととはいえ、他の男の手によって、最愛の妻を完膚なきまでに陵辱し尽くされた男の悲哀。
“あんな若造になにができんの。アハハハッ!”
そうサウナで豪語していた強気の堀田とのギャップがあまりにも憐れであった。

それにしても、すごい内容だった。あれから、サトルの筆下ろしシーン、美咲とのレズシーン、風呂場での剃毛シーンと次ぎから次ぎへ、それは凄まじい映像が続いた。特にクライマックスでの伊能とのファックシーンは圧巻の一言であった。
“あれほどの衝撃に、果たしてオレは耐える事が出来るんだろうか?”
考えるだけで、ブルブルと身体の震えが止まらなくなった。



「ねえ、ママ、早くぅ~。由香ちゃんも、卓巳くんも、もう行っちゃったよ、ねえったらぁ!」
品評会の喧騒から一夜明けた日の夕刻、庭先で浴衣を着せた娘と二人、響子の身支度が整うのを待っていた。
その日は近所の神社の境内で行われる盆踊りの日で、行く夏を惜しむという形で毎年八月の末に行われるこの盆踊りに、揃って浴衣で出かけるのが我が家の夏の恒例行事になっていた。
「ごめん、もうちょっとだから、待ってぇ」家の中から響子の声が聞こえた。
「しいちゃんさぁ、そんなに慌てて行っても盆踊りまだ始まってないよ」
「だって、早く行かないと金魚掬いの金魚さんも、ヨーヨーもみんな持ってかれちゃうよ」
「アハハハッ、なんだ、しいちゃんのお目当てはそっちかぁ。大丈夫だよ、そんなに早くなくなったりしないよ」
しばらくして、玄関に浴衣姿の響子が現れた。
「詩織ごめんねぇ、おまたせ、おまたせ」下駄箱に片手をかけ、並べてあった下駄を履く。
「ママきれい!」
「へへっ、どうもありがとう。さあ行こうか」と響子が詩織の手を引いた。

「そんな浴衣もってたっけ?」響子の浴衣を眺めながら私が言った。うすい茜色の生地に赤いトンボが飛びかっているという、夏の終わりのこの時期に、なんともふさわしい浴衣であった。
「うん、ずいぶん長い間、箪笥の肥しにしてたんだけど、一度着て見ようと思って」
「ふ~ん。でもよく似合うよ。一番いいんじゃないの。なんで着なかったの?」
「う、うん、なんとなくね・・・」

私は、響子の浴衣姿が大好きだった。付き合って間もない頃だった、何度目かのデートで花火大会に出かけた時、初めて響子の浴衣姿を見た。
「なんですか?そんなにジロジロ見て。そんなに浴衣がめずらしいですか?」
「い、いや。だって、あんまりいつもと違うから・・・」
初めて響子とくちづけを交わした、生涯忘れらない日である。

それにしても、なんて浴衣姿の似合う女なんだろう。子どもを産んでも少しも変わらない。それどころか年々艶やかさが増していくようだ。神社までの道すがら、浴衣姿の妻を見て、何人もの男が熱い視線を投げかけていく。“どうだ、オレの女房だぞ、羨ましいか” そんな誇らしさを感じながらも、その浴衣の裾を捲り上げ、伊能の巨根を咥えこんでは淫らに悶え狂う妻の姿を思い描き、激しく胸を焦がす自分がいた。

「詩織ぃ、走っちゃ駄目よ」
「パパ、早くぅ、こっちこっちぃ!」
「はいはい、今いくよ」
神社の鳥居をくぐると、詩織が一目散に金魚掬いの屋台の前まで駆けて行った。
「うわあ、金魚さんまだいっぱいいるぅ」
「ほらね、パパが言ったとおりだろ」
「うん」
「たくさん掬えたら、明日金魚鉢買いに行こうな、しいちゃん」
「ほんと?!やったぁ。しいちゃん頑張る」
「よおし、パパも頑張るぞ!」言いながら浴衣の袖をまくりあげた。
「あなたしっかりぃ」後ろから響子が声援を送る。
「ママぁ」
「なあに?」
「おしっこ」
「えっ?!、もう、なにか始めようとするとすぐそれなんだからぁ。あなた、ちょっと連れて行ってくる」
「ああ」
「パパ、頑張っていっぱい掬っといてね」
「まかしとけって」

もしもこの時、詩織が「おしっこ」と言わなかったら・・・、もし響子ではなく、私が詩織をトイレへ連れて行っていたら・・・、私達家族にあのような悲劇は訪れなかったかもしれない。今更ながら私達に降りかかった数奇な運命を呪わずにはいられなかった。この一ヶ月の後、私はまさに劇的な形で、ある驚愕の事実を知ることになる。


「パパ、踊らないの?」
「うん、しいちゃん先にママと踊っておいで。パパも後で行くから」
「じゃ、詩織行こうか」 響子が詩織の手を引き、踊りの輪の中に入っていった。

「あの小さな女の子と踊っているご婦人は誰かな?」「高梨さんとこのお嫁さんよ」「ああ、あれが高梨とこのぉ。きれいな人だねぇ」「でしょう、うちの啓介にもあんなお嫁さんが来てくれたらねえ」
後ろにいる老夫婦の話し声が聞こえてきた。踊りの輪の中で、響子の美貌は一際目を引いた。ときおり後ろでちょこまかと踊りの真似事をする詩織を振り返り、やさしい笑顔を送っている。
“きれいだよ、響子。愛しているよ・・・”
溢れるほどの思慕の念と、それゆえ涌きあがる加虐の心。そんな倒錯した思いに酔いしれながら、私は何も知らず娘と二人、踊りつづける妻の姿を見つめていた。


「どうした?具合でも悪いのか?」
ひとしきり踊りを楽しんだ後の神社からの帰り道、さっきからなぜか無口な響子の様子が気になっていた。
「ううん」と響子がかぶりを振り、「なんだか踊り疲れちゃったみたい。去年まではあれぐらいなんでもなかったのに。やっぱり三十超えちゃうとだめねえ。すっかり体力も落ちちゃって」と微笑んだ。
「ねえ、ママ、さっきのお兄ちゃんだあれ?」
「え・・・?!」
詩織の言葉に、響子が狼狽したように妙な瞬きをした。
「しいちゃん、なにそれ?」響子のあまりに動揺した様子が気になり、私が娘に尋ねた。
「さっき、おトイレ行った時、しいちゃんがおしっこ終わって出てきたら、ママがしらないお兄ちゃんとお話ししてたの」
“まさかっ?!伊能じゃ?!”
「だれなの?」何食わぬ顔を装いながら、響子に尋ねた。わずかに語尾が震えた。
「え、う、うん知らない人。浴衣お似合いですねって、声かけられちゃった。へへっ」と引きつった笑いを浮かべた。
「詩織、どんなお兄ちゃんだった?」
「それが、すっごいかっこいお兄ちゃんだったよ。背がこ~んなに高くって」詩織が片手を上にあげ、ジャンプしてみせた。
伊能だ!早くもヤツが動きだしたんだ。身震いが全身を駈けぬけた。今日から響子へのアプローチが始まるのだ。その初日から早くも伊能が始動したのだ。それにしても、響子のこの狼狽ぶりはなんだ?ひょっとして、もうすでにヤツの手に落ちてしまったというのか?!
私は立ち止まり、詩織の手を引いて歩く響子の後ろ姿を眺めていた。


「詩織ぃ、花火振り回しちゃだめよ。浴衣に燃え移っちゃうと大変よ」
帰りに寄ったコンビニで詩織にせがまれ花火を買い、さっそく家の前で三人で楽しんだ。
「ママ、これ見て!きれいでしょ!」
「あらほんと、きれいねえ。でもママはやっぱりこれが好き」
そう言って響子が線香花火に火をつけた。いっとき、シュウッと激しく燃え立ち、響子の白い頬を茜色に染める。
「夏も終わりねぇ」
「うん・・・」
音も無く最期の一花を咲かせる線香花火を片手に、響子が小さく呟いた。
“いいや、まだ終わってないぞ響子・・・。オレ達の熱い夏はこれから・・・これから始まるんだぞ響子ぉ・・・・”
線香花火の淡い光に照らされた響子の横顔を、二人の私が見つめている。消火用の水を入れたポリバケツの中で、晩夏の月が揺れていた。
    
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