「明日はないよ」

相手も声が出ないが、私も次の言葉が出せません。
ちょっと勢いに任せて張り切り過ぎましたが、しかし俺も男だ、後戻りは出来ないのです。
慌てた妻が私から携帯を奪い取ろうとしましたが、私に突き飛ばされ尻もちをつき、見上げるその表情は流石に蒼白で唇がわなわなと震わせています。

「そうだな。今日はもう遅い。あんたの言う通り明日話し合おうか。
俺があんたらの会社に御邪魔するよ。
逃げずに待ってなよ。あっ、そうだ。俺が誰かは分かるよな」

「・・・はっはい・・・御主人でいらしゃいますね・・・・」

男は会社に来られては困ると言いたかったのでしょうが、そんな相手の気持ち等お構いなしで、一方的に電話を切っていました。
その後の私の心臓の高鳴りはドクドクと妻に迄聞こえそうな勢いです。
私も気の小さな男で、全く情けない。
そんな事を妻に覚られるのが嫌で、カバンを持って寝室に引き返しました。
ただ居間を出る時に一言だけ妻に声を掛けます。

「そう言う事だ。もう俺達駄目かもしれないな」

妻がどんな表情でその言葉を聞いたのかは、背を向けた私には分かりません。
しかし、身動き一つ出来ない妻の気配は伝わります。
寝室に入り、興信所で渡された報告書を開いてみると、そこには男の
名前、住所、家族構成等が記載されています。

『子供が1人か。家の子達より年下なんだ。これから金が掛かるのに、女にうつつを抜かしている場合じゃないだろう』

妻と男との写真、報告書、私の武器は揃っています。
これから、この2人を如何料理するかですが、こんな経験のない私には、今一つ自信がありません。
ベッドに疲れた身体を横たえた時、妻がドアノブに手を掛けたようですが、私は鍵を掛けていました。

「貴方、開けてくれないかしら。何か誤解してると思うの。話を聞いてちょうだい」

どんな悪知恵を思いついたのか?まさか男に教えられた通りに話そうなんて思っているのじゃないだろうな。
興味の有るところではありますね。
私は書類を簡単に片付けて鍵を解放しました。

「貴方、何か勘違いしてないかしら。私から電話したのに嘘ついて悪かったわ」

寝室に入ってくるなり、そんな事を言い出します。
子供を育てた女は怖い物知らずです。あの初々しかった若き頃の妻はそこには居ません。
気性の荒い女ではありましたが、こんなには図々しくはなかった・・・

「残業を減らして欲しいと部長に頼んでいたの。でも中々許可してくれなくて・・・・・・
その結果がこれじゃない。だから部長に如何してくれるって文句の電話を掛けたの・・・・・
何か貴方に誤解されてるみたいだから、つい嘘をついちゃって・・・」

白々しい。

「そうか。そんな話をしていたのか。ちゃんと言ってくれればよかったのに」

私は薄ら笑いを浮かべながら、妻に興信所の封筒を渡しました。
何気なく受け取り、それが何を意味するのかを悟った妻の表情が凍り付いたのは言うまでもないでしょう。
嘘がばれたら極まり悪いのは誰しも同じです。ただこの嘘はたちが悪い。
その位の感情は、幾ら厚顔無恥の妻でもあったみたいですね。

「中を見てみろよ。面白いぞ」

妻は封筒の中を見る事が出来ません。
当然その中から何が出て来るのかは分かっているでしょうから。
暫らくの沈黙の後、妻が問います。

「如何して?如何してこんな事を?」

意味不明な言葉を口にしましたのは相当焦っているのでしょうね。

「如何してって何が?如何もこうもないだろう。疑っていたからに決まっているじゃないか。
まさか俺が何も気付いていなかったと思ってるのか?俺はお前が思う程馬鹿じゃないよ。
自分からこんな不潔な事を止めてくれるのを待っていたんだぜ。
その時は怒るだろうけど、しっかり話し合って、お前が望むのなら許してやろうと思っていた。
しかしそんな日は来なかったな。もう許す段階じゃない。お前だってこのまま終りにしたいと思ってるだろう?」

心にも無い言葉が口から出て来ました。私は初めから許してやろうなんて思っていません。
でもそんな事を言ってしまうと、あたかも本心のように思えて来るから不思議です。
私は取引先の彼女の顔を思い浮かべていました。と言うより、何時も頭の中にいるのです。
彼女がその気があるのなら、今すぐ妻と別れて一緒に暮らしたいとも思っています。
それが実現すると、現実が幸せなのか如何なのか。私には分かりません。でもこの年になっても女は新しい方がいい。
惚れて惚れて結ばれた結婚ではありませんでした。将来を真剣に見詰ての結婚でもなかった。
世間知らずゆえ、自尊心を満足出来るものであれば誰でもよかったのかも知れません。
だからこそ、今は真剣に若気の至りを後悔してるのでしょうね。
おっとりとして優しい女を私は求めている。
勝手ですが求めている。あの人が今こんな状況だから恋しい。
今だからこそ恋しく思える。
しかしそんな事を告白した訳でもなく、私が勝手に思っているだけです。
私がそんな話しをしたなら、彼女は何と答えてくれるのか?
『御免なさい』が関の山でしょう。単なる私の夢です。
勝手なものでこんな時は、子供達の立場等眼中にありません。
そんな思いを心の中で思い巡らせている間にも、妻からの返答がないのです。
私はいかにも悲しそうな態度で寝室を出ました。
『さあ、これから如何やって苛めてやろうか』
悲しく等ありませんが、何故か嬉しくもありません。私はこんな面倒くさい時間が大嫌いなだけです。
しかし今は悲しそうにした方がいいのでしょう。ドラマだってそんな描写をするはずです。
『我ながら上手い演技だ。怒り散らすのもいいが、この方が信憑性が沸くだろう』
私は作り笑いを浮かべました。

居間に行くと、何時2階の部屋から降りて来たのか、長女がソファーに座っています。
娘は私に小声で話し掛けます。

「お母さんは?」

「寝室だよ。もう直ぐここに来ると思うぞ」

「そうなの。それじゃぁ不味いわ。実はね、お父さんに話があるんだ。お母さんには聞かれたくないの。私の部屋に来てくれるかな」

何の話かは分かりませんが、娘に付き合わない訳には行きません。
二人で階段を上がります。
滅多に入る事の無い娘の部屋は、思いのほか綺麗に整理されてます。
この辺は私ではなく、妻に似たのでしょうね。
そこには次女も私を待っていました。
二人でベッドに腰を下ろし、並んで座ります。何か若い頃の妻が隣に座っているような感じでがします。
当然ですよね。この子は妻が産んだ子供なのですから。
そんな娘が窓の方を見詰ながら話し出しだしました。

「お父さんとお母さん大丈夫なの?」

「大丈夫って何が?」

私は妻の帰りが遅いのを、娘達の前で愚痴らなかったと思います。
また、夫婦の言い争いも子供達の居るところでは避けていたつもりですが、それなりに伝わってしまうものなのでしょう。
娘達の話しの内容は、私よりも早く帰宅した時等よく電話をしているが、如何も相手が男のようである。またその内容を娘達には聞かれたくない様子である事。決定的に疑われたのは、私が出張の時は必ずと言っていい程に妻も外泊をしていると言う事がでありました。
娘達には『私もたまには羽を伸ばしたいの。お友達のところに行って来る』と、お決まりの台詞を言うようです。
私は家に電話を余程必要がある時以外は入れないのです。
電話が来ない事をいい事に好き放題です。
妻にとって、この子達がまだ幼い子供なのでしょう。
しかし、私達が思う以上に充分な大人になっています。
上手く誤魔化したつもりでも、もうそんな事では通じません。
『そうか、外泊までしていやがったか』
ここのところ出張がなかったので、興信所の報告書にもそこ迄は記入されていませんでした。
私は無関心過ぎました。無関心だったからこうなったのかもしれませんね・・・・・
妻もこんな事をしていれば、流石に娘達にも疑われると言う事ぐらいは考えるべきでした。
そんな理性も働かないほど、男と一緒に居たいと言う事か・・・・・

「言い難いんだけどさぁ、お母さんに男の人が出来ちゃったんじゃないのかなぁ。もしよ、もしそうだったらお父さん
如何する?離婚する?」

「お父さんと、お母さんが別れたら如何する?」

「・・・・・私達は嬉しくはないけど、お父さん達が決めた事ならしょうがないと思うしかないわ・・・・」

そう言って寂しそうに俯いている表情に、妻の面影が漂います。

「お父さん。もっとしっかりしないと駄目よ」

明るく笑って言いましたが、その笑顔は自然に湧き出たものとは違います。
この子達も、何時かは好きになった人と結婚して子供を産むのでしょう。その時は、私達のような夫婦でなければいい。
それでも長い生活のには晴れもあれば雨の日もある。そんな経験を積んで、今の私達の関係も理解できるのかも知れません。
しかし今はまだ若い。そこ迄は理解出来ないのが当たり前です。
私達の子供としての目で見ているのです。
私にはこの子達が居るんだなぁ。自分の事しか考えていなかった。
いっぱしの大人面をしていましたが、私は子供なのです。
私達の行動が、この子らの心に不安を与えてしまった。まだ浅い不安であろうその傷を、埋めてやるのが親としての努めなのか?
大人って責任を持たなければいけない生き物だって、せつないですね。